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第一子は病院で誰にもとりあげてもらえない墜落分娩でした


皆さま、こんにちは。

私は、第一子を埼玉県の自宅近くのS産科病院で出産しましたが、そこではひどい扱いを受けました。

私の子どもを誰にも取り上げてもらえず 、分娩台の汚水うけにおちました

墜落分娩でした。

謝罪はありません。

S産科病院で産んだことを激しく後悔しました。助産院を探していたら、出産体験が違ったのにと思いました。

なぜそれが起きたのか?陣痛から分娩までのできごと

私の新婚生活は埼玉県で始まりました。

妊娠が分かった時に、2人の子どもだから2人で育てる。実家のある北海道での里帰り分娩をしないと決めました。

新居に近いS産科病院を受診し、妊婦健診の助産師さんの印象がよいので、その病院で産むことを決めました。母親学級の時の助産師さんもとても良い感じでした。お米の配達のおじさんも「あそこはいい病院だよ」というので期待していました。

ところが……………………。

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妊娠39週の夜に10分おきの陣痛がきました。病院に電話をかけ、深夜12時過ぎにボストンバックをもって入院しました。立ち合い分娩を希望していましたが、夫は一度帰されました。

夜は痛くて一睡もできませんでした。痛くても食事をとったほうがいいと授業で習っていましたが、お腹が痛くて!!、朝ごはんは食べられませんでした。

朝9時頃、内診にきた院長から「なんだご飯食べてないのか?」「こんなんで痛いはずないんだ!!」と言われました。「夫がついている人は甘えてダメだ!」ともいわれました。

私の痛みが院長にわかるのでしょうか?

院長は、とにかく口が悪い人でした。

後で知ったのですが、私が入院した日は7人の分娩の入院があり、スタッフはバタバタしていたようです。

朝から産婦は促進剤の点滴をを打たれていました。

私は 促進剤の怖さを学んでいたので、必要がなければ打ちたくないと思っていました。そのため拒否しました。それがひどい扱いを受けた理由の一つではないかと推測しています。

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第一子を出産した時は 看護師の資格しかなく、分娩経過がよくわかりませんでした。

とにかく陣痛は辛く、生理痛よりもひどくて辛かったです。そして、この痛みがいつまで続くのか?先がみえないことが余計辛かったです。

朝の9時過ぎに、一度帰された夫が再来院して腰をさすってくれました。これがとても助けになりました。

午前10時頃、痛みに耐えながら陣痛室を出て、トイレへ向かいました。トイレからでると、分娩室から遠い部屋に移動させられました。たぶん私はまだまだ産まれないと判断されたのだと思います。

陣痛の激しい痛みが続いていました。その痛みのため、昼食も食べることができませんでした。

昼12時すぎ、院長がまた内診に来ました。(この病院はなぜか院長しか内診しませんでした。)思い出すと、院長が昼の内診をした時には、3分おきくらいの陣痛がきていたと思います。

私はしんどすぎて「あとどれくらいかかりますか?」と院長にききました。すると、「まだまだだよ!!あんたなんて最後だ(陣痛で入院した7人の中で最後の分娩という意味)!」と言われました。回診についていた看護師長にも「そうよ、ベビー室を見に行けるくらいなんだから、痛いわけない」と言われました。

私は痛すぎて、その時は何を言われているか分かりませんでしたが、後で振り返ると、私がトイレにいったことがベビー室を見に行ったと思われたようです。(トイレの前にベビー室があり、ガラス越しに見れるようになっていました。)

拒否をしていた促進剤をお願いするくらい陣痛は辛かった

「まだまだだよ!あんたなんて最後だ!」と言われた時、もう無理と思いました。拷問を受けているのだろうか?この痛みがずっと続くのは本当に無理、辛く耐えられないと思い、促進剤の点滴を打ってくださいとお願いしました 。

すると10分後くらいに看護職は点滴を持って部屋に入ってきて、点滴台にぶら下げた後、すぐに出ていきました。

1時間ぐらい放っておかれた後、点滴を刺されました。薬剤が入るとまもなく、体の中に電気が走る感じがしました。

うんちがでる!朝の浣腸がまだ残っていたのだ。うんちを漏らしたら困る‼と思い 夫に人を呼びに行ってもらいました。(赤ちゃんの頭が下がるとウンチがしたくなる感覚になることは、この時看護師の資格しかない私は知りませんでした。)

入ってきた看護職は、私のパンツをはがし会陰部をみて「がまんして!」と叫び、誰かを呼びにいきました。(この時、児頭が見えたり隠れたりする、排臨だったのだと思います。)

がまんってどういうことだろう???ウンチがでるのを我慢するの?どうしたら我慢できるの?と、わけがわかりません。

そんなことを思っていたら手足が硬直しました。

過呼吸でした

部屋に戻ってきた看護職は、私に「歩いて!」と言いましたが、体が動きません。

口にビニール袋を当てられました。

何度か呼吸をして、筋の緊張が解けた時に、さあ歩いて!と分娩室まで歩かされました。

元気な時だったら大した距離ではありません。 しかしその時は何キロもあるように感じました。

院長の内診結果を信用しているスタッフにとって、私の分娩は予想外だったのでしょう。

分娩室は、何も用意がされていませんでした。

看護師長と助産師?が慌てて、私にお尻を向けて分娩用の機械を用意していました。

私はとにかくいきみたくて、一人でいきんでいました。

そして3回いきんだ時に、私の赤ちゃんがおぎゃーと泣きました。

私も、びっくりです。えつ?産まれたの???????????

私にお尻を向けて分娩用の機械を用意していた看護師長と助産師?の2人は、びっくりした顔で私の方を振り向きました。(たぶん、初産だからすぐに産まれないと思っていたのでしょう。)

助産師?が、慌てて私の息子をもちあげて私にみせ「はい男の子です」「13時41分」といい、息子をすぐに違う部屋に連れて行きました。(その後、ベビーコットのネームカードは13時44分に変更されていました。)

 幸いにも息子は怪我もなく 、その後 健やかに育ちました。本当に良かったです。

医療訴訟問題にも発展しかねない大変なことでした。ひどい 病院だなと思いました。そして、知り合いには絶対に勧めないと思いました。

わだかまりが残った分娩

分娩後、怒りとわだかまりが残りました。なぜ?あんな扱いを受けたのか?私は悪者なのか? 出産体験がひどすぎて、頭から離れませんでした。

きっと助産院で分娩していたら、3回いきんで出産したので、 安産だったねと褒められた 出産だったと思います

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驚いたことにS産科病院は、転勤で離れている間にホテルのように大きくなっていました。お産の年間件数も多いと聞きました。

出産体験が育児に影響すると学んだ

私は35歳の時、埼玉県立大学に編入学しました。

図書館で、偶然、ネガティブな出産体験をした女性たちの体験記をみつけました。その本を読み、出産で嫌な思いをした人たちは、その後の育児にまでネガティブな影響があること、その思いは私だけではないことを知りました。

 県立大学で助産師課程の選抜試験に合格し、助産師になるための勉強をしました。出産の体験がその後の育児に影響するということ、ルービンRubinなど妊産婦の心理変化がわかる本や関連する文献をむさぼるように読みました。私は、私のような嫌な分娩を体験する人を増やしたくない、そうしないと心に誓いました。

そして、第一子は病院で嫌な思いをしたので、第2子は自宅分娩にすると決めました。それが41歳の時にかないました。自宅分娩のメリット、デメリットについては次回書きます。

最後までお読みいただきありがとうございます。

それでは、また。

 

Profile

大友光恵
大友光恵
興味関心は、女性が社会でいきいき活躍できるように、女性の心と体の健康面からサポートすること。

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